2019年1月3日に金栗四三さんの出身地である和水町を震源とする、最大震度6弱の地震が発生しました。
被災された方々の安全と、今後被害が拡大しないことを切に願っております。
Contents
大河ドラマの主人公
2019年大河ドラマ『韋駄天』の主人公は、金栗四三(かなくりしぞう)さんです。
龍馬伝や西郷どんであれば、坂本龍馬、西郷隆盛が主人公だとわかりますよね。
しかし、金栗四三と言われても、ピンとこない。。。
ということで、今回、金栗四三さんがどのような経歴で、どのような功績を残したのかをまとめます!
金栗四三のプロフィール
まずは金栗四三さんのプロフィールをご紹介します。
名前 | 金栗四三 |
生年月日 | 1891年8月20日 |
没年月日 | 1983年11月13日(92歳没) |
出身地 | 熊本県 |
競技 | マラソン |
ベストタイム | 2時間32分45秒(当時の世界記録) |
ワーストタイム | 54年8ヶ月6日5時間32分20秒3 |
今となっては、マラソンは2時間10分内の記録が多く出ますが、練習や道具が確立していなかった当時は、2時間32分というのは大記録で、27分も世界記録を更新しています。
ワーストタイムについても気になりますよね??
後ほど説明します。
生い立ち
幼少期~高校時代
1891年(明治24年)8月20日、熊本県玉名郡春富村(現在の玉名郡和水町,旧三加和町)で人兄弟の7番目の子供として生まれました。
上図の赤線で囲まれた部分が和水町ですが、ご覧の通り、山の中です。
吉地尋常小学校(現在の三加和小学校)に10歳まで通い、その後は玉名北高等小学校(現南関第三小学校)へ片道12㎞の道のりを走って通っていました。
往復20km以上走っていたため、足袋をすぐに履き潰していたそうです。
金栗四三さん本人も、このときの経験が、自分の競技人生の原点だと語っています。
その後、玉名中学校(現玉名高校)に進学し、学生寮で生活をスタートさせます。
玉名高校といえば、熊本県玉名地区の進学校です。
進学校でもクラス上位の成績をとっており、特待生として授業料免除を受けていました。
当時の玉名中学校
大学時代
玉名中学校卒業後は、海軍兵学校を受験しますが角膜炎のため不合格となり、東京高等師範学校(現筑波大学)へ入学します。
そして、この入学が人生を大きく変えました。
校長の嘉納治五郎(講道館柔道の創始者)氏は、
「知育、徳育、体育の三育」を教育理念に掲げ、年に2回、マラソン大会を開催していました。
入学直後の春の大会に出場した金栗四三は、25位という結果に終わります。
雪辱を期した秋の大会では3位でゴールし、嘉納治五郎校長から「1年生としては抜群の健闘」と評価され、2年生進級とともに陸上部へ入部しました。
1912年のストックホルムオリンピック国内予選会で2時間32分45秒を記録します。この記録がなんと、当時の世界記録を27分も縮める大記録でした。
もちろん、オリンピック日本代表となります。(東大卒短距離選手の三島弥彦選手と派遣されることに)
オリンピック出場
しかし、金栗選手も三島選手も出場を固辞していました。
理由は、補助を約束していた文部省が「学生が運動競技と言う遊びで海外へ行くなど許しがたい」として補助金の交付を拒否し、渡航費用が全て個人負担となったからです。
今では東京オリンピックに向けて力を入れている中で、考えられないですよね。
校長の嘉納氏が「捨て石や礎になることは辛いことだが、誰かがやらなければいつまでも日本は欧米に追い付くことはできない。ここを逃せば次はまた4年も待たなければならない。日本のスポーツ界のために黎明の鐘になってくれ」と説得し、2人ともオリンピックへの参加を決意します。
こうして、ストックホルムオリンピックは、日本が最初に参加したオリンピックで、金栗選手はオリンピック参加選手日本人第1号となったのです。(しかも19歳!)
多くの支援
オリンピック出場が決まると、東京高等師範学校寄宿舎の舎監であった福田源蔵(ふくだげんぞう)氏が、金栗四三後援会を立ち上げ、渡航費用の寄付活動を開始し、瞬く間に1500円もの金額が集まりました。
また、「播磨屋足袋店」の職人・黒坂辛作(くろさかしんさく)に、足袋の底を3重に重ねて厚くする「マラソン足袋」を作ってもらいます。
この話は、池井戸潤さんの「陸王」のモデルとなっています。
期待されるも棄権
NIPPONのプラカードを持っているのが金栗選手です。
世界記録を30分近くも更新し、誰もが金メダル最有力だと期待していたのですが、
この年のストックホルムは歴史的な猛暑に見舞われ、マラソン選手68人のうち34人がリタイアする過酷なレースとなりました。金栗選手も日射病により、26.7キロ地点で離脱してしまいました。
意識を失って倒れていたのですが、地元の方に助けられた後、競技場へ戻らず、宿舎に帰りました。そのため正式な棄権の届出が本部に届いていなかったのです。
すると、大会本部は、金栗選手が失踪したと、騒然となりました。
金栗選手が結果を残せなかったのは、いろいろな理由がありました。
- 日本はオリンピック初参加でmスケジュール調整や選手の体調管理など、選手サポートのノウハウが無かった。
- 日本からスウェーデンへは船とシベリア鉄道で20日もかかり、多くの選手は初の海外渡航であるなど負担が大きかった。
- スウェーデンは緯度が高くオリンピック開催期間はほぼ白夜であったため、睡眠に支障があった。
- スウェーデンには米がなく、予算の都合で人数分を持参するのも難しかったなど、食事の面で苦労した。
- マラソンの当日は金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければいけなかった。
- 最高気温40℃という記録的な暑さで、レース中に倒れて翌日死亡した選手が発生するなど過酷な状況であった。
これはもう、金メダルどころではないですよね。。。
オリンピック後
22歳の時に医者の娘さんと結婚し、その後、東京府女子師範学校(現東京学芸大学)などで地理の教師として教壇に立ちながら、さらに走りに磨きをかけます。
今度こそ金メダル!
と期待された1916年のベルリンオリンピックは、世界第一次大戦で中止、1920年のアントワープオリンピックは16位,1924年のパリオリンピックは途中棄権という結果に終わってしまいます。
スポーツの普及活動
オリンピックで世界との差を痛感した金栗さんは、もっと日本でスポーツを強化すべきと考え、普及活動に取り組みます。
特に、女子選手がオリンピックに参加していることに感激し、女子スポーツの普及にも取り組みました。(当時の日本は、女性は家の仕事をできればいいという考えだった)
特に有名なのが、正月の名物となっている、箱根駅伝です。
箱根駅伝を開催するために尽力し、大会MVPは、金栗四三杯を授与されます。
世界最遅記録達成
金栗さんには大きな心残りがありました。
それは、ストックホルム大会で棄権したことです。
ストックホルム大会から50年目の夏、1962年にスウェーデンの新聞記者が「消えた日本人」の謎を解明するため、玉名の自宅で金栗さんを取材します。取材結果は、スウェーデンの新聞やテレビで大きく紹介されました。
1967年、75歳のときにスウェーデンオリンピック委員会からオリンピック記念行事の招待状を受け取ります。
この記念行事では、世界中が感動したビッグサプライズが用意されていました。
金栗さんが大観衆の中で10メートルほど走り、用意されていたゴールテープを切り、「日本の金栗選手、ただ今ゴールイン。記録は通算54年と8月6日5時間32分20秒3。これをもちまして第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了といたします」とアナウンスされました。
この、54年8月6日5時間32分20秒3は、公式記録としては登録されていないのですが、様々な記録書に、載せられています。
このときの金栗さんのコメントは、「長い道のりでした。その間に妻をめとり、子ども6人と孫10人ができました」
マラソン中に孫が10人生まれるとは。。。
当時のスウェーデンの新聞と、ゴールの瞬間の金栗選手。
晩年
晩年の金栗選手は、熊本県を中心に、スポーツの普及活動に尽力し、
1983年11月13日に生涯を終えました。
金栗選手が日本スポーツ界に残した功績は大きく、「マラソンの父」と言われています。
ちなみに・・・
金栗選手が達成できなかったオリンピックのメダル。
1920年に、テニスの熊谷一弥選手が、日本人初のメダル(銀メダル)を獲得しましたが、熊谷選手の出身地は、金栗選手の近所である福岡県大牟田市(車で20分くらい)でした。
何か縁を感じますね。
ちなみに日本人初の金メダリストは、1928年アムステルダムオリンピック三段跳金メダリストの織田幹雄選手です。
大河ドラマ「韋駄天」
2019年大河ドラマは、2020年の東京オリンピック開催を盛り上げるために、日本のオリンピック参加の歴史を振り返る脚本で製作されます。
日本人初のオリンピック選手としても、日本のスポーツ普及に努めた活動家としても、金栗さんを取り上げるのは、正しい判断でしょうね。
金栗選手役は、中村勘九郎さんが演じます。
今、スポーツをすることも、観戦することも楽しめているのは、金栗選手の力もあったことでしょう。
金栗選手の生涯を大河ドラマで見てみませんか?
参照
https://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/112/2193.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A0%97%E5%9B%9B%E4%B8%89